Project Lycos; Extended Stage

今は亡きSF作家の伊藤計劃氏が遺したブログの記事に、狼男映画に関するものがあります。
誤解を恐れずに要約するならば、狼男の物語は吸血鬼やエイリアンのそれのような根源的不可解性を有しないので、根源的恐怖を生み出しえない。ゆえに恐怖映画には不向きである、というところです。
狼男の物語の背景は、あくまでも自然の延長どまりの超自然にすぎず、その有する特質も、せいぜいが圧倒的暴力の程度でしかないというわけです。


伊藤計劃氏の論には、いたく共感を覚えるところがあります。吸血鬼が生ける死者すなわち生物の枠を超えた存在であり、エイリアンが地球外の完全なる未知世界を体現する存在であるというのは、論を待たないでしょう。これに対して、われらが獣人の代表としての狼男は、生物の枠を超えているわけでも、既知世界の枠を超えているわけでもなく、その意味から云えば物語として迫力不足の感は否めないわけです。
伊藤計劃氏も指摘しているように、仮に、神話伝承、感染性や再生能力といった神秘的性質などの要素で多少装飾を施しても、あくまでフレーバーにすぎず、物語の本質を変えるに至らない。本質的な恐怖に欠けている、とまあこういうわけです。


しかし、その一方で、氏の指摘に欠けているものもあるのじゃないか、そう思う部分もあります。それは、変化という要素です。
狼男の場合、あくまで生物という既知世界の枠組みの中ではありますが、変化という物語は、きわめて強力なものだと思います。日常から非日常へと遷移し、また日常へと戻り得る、然れどその日常には非日常の断片が持ち込まれる。かくも微妙なるこの味わい、これは、人知の及ぶ範囲においてこそ美しく成り立ち得るのであって、人間から断絶した存在の物語では、かえって妙味を損なうのではないでしょうか。
また、この変化というスパイス、恐怖という味を生むこともあります。ヒトには戻れるけれども、もう二度と以前の自分には戻れやしないんだという、人生そのものの縮図にも似た命題を、変化の物語は我々の喉もとに突き付けてくるのです。
伊藤計劃氏はあくまでホラー映画のコンテクストの中で狼男の位置づけを語っているのであって、それはホラー性の強弱の論評ということになるのですが、世の物語は、何もホラーに限るわけではありません。その点、氏も、狼男と恐怖映画とは、ある種不幸な出会いであったというふうに述べていました。まあ要するに相性の問題なのでありましょう。


なお、伊藤計劃氏のSFには以前から関心があるのですが、未だに手にとる機会を得ていません。きわめてものぐさな駄文書きの身としては、少しなりとも幻想の依るべを増やすべく、氏の作品を拝読する時間を待ちたいものです。