変化、死、そして生

変化とは、「いまあるわたし」が「そうではないなにか」に変わる物語である。それは、とりもなおさず「いまあるわたし」の喪失を意味する。


この世界から「いまあるわたし」が存在しなくなるということは、「いまあるわたし」がこの世界を去ること、すなわち究極的には死、と等しく観念され得る。たとえば「山月記」では、李徴は、人間の心を失うことをおそれる。それはすなわち、人間としての死だからであろう。


しかし、変化は死と等価かといえば、必ずしもそうではない。
先の例でいうならば、李徴の心の中には、虎に化ってしまうことへの憧憬がある。わたしたちは、変化にあこがれる。


これは、どのように解釈すべきなのであろうか。人間的理性の範疇を超える異類への変化は、畢竟自死願望と対比されるのではないか、とも思われる。仮に、究極の変化が消滅すなわち死であるならば、変化の物語の究極は死の物語であるともいいえよう。
しかし、一方で、変化してなお「わたし」が、「いまあるわたし」と、ある意味で主観的連続性をもって存在し得るのなら、それは、死とは異なる物語なのだ、といっても過言ではないのではないかとも思える。


完全なる消滅、言いかえれば、死、ではない、変化という物語は、死の物語のもつカタストロフィーに比べれば歯切れが悪く、緩慢で、曖昧で、昇華をもたらさないように見える。
しかし、思うに生命とは、常に曖昧で、割り切れないものではないだろうか。
実は、変化の物語とは、死と対極にある生の物語なのかもしれない、と思う今日この頃だったりする。