食と獣

 獣人の物語において、獣らしさを主張する一つの物語として用いられるのが、食欲である(と思う)。
 その究極は、誰か(登場人物、たとえば、お相手役)を食べる、という宣言である。本当に食べてしまう例もないではない。「ミッドナイト・パンサー」のケイは、愛する男を食らって自分のものにする。これはいささか極端な(そして倒錯的な)例ではあるが。


 「モノクロ少年少女」では、獣人が人間を食べるのは当たり前であるように(しかし、深刻にならないようコミカルな表現で)描かれている。しかし、この作品においても、人間のヒロインを、(お相手を含む)獣人が食べてしまうかもしれない、という至極シリアスになり得る物語の構造は存在する。
 「わたしのCAT BOY」(「めざめれば人魚姫」収載)の主人公のクロヒョウ獣人少年は、ヒロインに対して、「喰われたくなければ、おれの言うこと聞けよ」と脅す。しかし、それは思うに照れ隠しの類である。
 「ウルフル・ムーン」のフェンリルは、古の巫女の転生であるヒロインを食らいにきた、というものの、実際にはそうはしない。むしろ、その行動は逆の道筋をたどっていくといってよい。


 この手の物語の語り手は、獣人を、人間と完全に断絶したものとしては描いていない。むしろ、特殊な形質をもつ人間といったくらいのものであろう。たまたま、その物語で描かれるキャラクターのもつ特殊な形質が、獣人的なるものだっただけである。すなわち、この多少エキゾチックな形質を際立たせるものとして、一般に野性的と認知されている、食にまつわる言動が用いられていると考えられるのだ。
 語り手は、物語においてこのような言動を示すことにより、そのキャラクターが一般的な人間とは異なる性質を有することを主張する。これは一見、人間との断絶を図る方向であるようにもみえる。しかし、あえて一般の人間とは異なるという性質により越えがたい断絶を演出しつつ、その間に関係性を構築する、という物語を描きだすわけである。恋は、困難が多いほど燃えあがるという。物語をドラマティックにするためには、一見して成り難いところに関係性(たとえば、友情や恋愛関係)を構築させるのが効果的だ。
 ゆえに、関係性構築の物語を効果的に演出するため、いったんあえて突き放すのが、食べてしまうなどという台詞の物語上の役割ということになろう。


 「願い事は三回」の過去の挿話で、戦国時代の少年・九狼は、大好きな星姫から離れて一人つぶやく。「姫のことを食べてしまうかもしれないからだよ」
 しかし、星姫は九狼を選び、悲劇的な死を迎える。そして、時代が下り、現代において悲劇をふたたび繰り返さないというように、物語は構築されてゆく。