鼻づら主義者と耳しっぽ主義者…越えられない壁なのか?(12)(終)

結論 〜 超えられない壁なのか?(あるいは、獣人文化の未来展望)

 これまで見てきたように、鼻づら主義と耳しっぽ主義には決定的な違いが存在する…人間の顔を選考するか否かという違いである。この違いが存在する限り、両者の共存はあり得ない。
 リアルな動物表現がマイナスに作用するため、あえて状況を軽薄化するためノン・リアル表現によっている例も挙げたところである。
 耳しっぽ主義がファンタジストといっても、現実世界において、イヌやネコは広く一般に愛されている。イヌやネコはリアルな存在である。毛皮で覆われており、耳しっぽだけでなく、ちゃんとマズルもある!
 ただし、イヌやネコが愛されているのは、それがイヌやネコだからである、ということも忘れてはならない。マズルを有する人間(獣人)との間には、なお隔たりがあるのである。
 しかし、逆に言えば、キャラクター表現の人間性を基礎に置きつつ、動物変身などの物語的手法によって動物性を付与し、その際の表現が人間性選好の読み手にとっても十分に魅力的であれば、受け入れられる余地はあるのではないか。


 なお、筆者は鼻づら主義者でも耳しっぽ主義者でもない。鼻づらを備えた獣人はもちろんチャーミングだと思うし(どちらかというと変身タイプが好みではあるが)、耳しっぽキャラであっても、獣人にふさわしい動物性を備えた魅力的なキャラクターは存在すると思うからである。本稿でも述べたが、筆者はその中間領域をも愛好している。おそらく、マズラーから見れば筆者の嗜好は中途半端あるいは節操がないということになるし、耳しっぽ主義者から見れば「マニアック」に見えるだろう。
 しかしながら、より動物性の強いキャラクターの需要が決して多いとはいえない現状において、獣人文化の発展を図るためには、耳しっぽ主義を前向きにとらえる必要があると思われるのである。